私が思うこと…17年の軌跡。
私が思うこと。
どーも!藍琉です。
いつもお世話になっております。馬鹿丸出しのツイートばかりしかしてませんが😅
これを機に話してみたくなったので話そうかなぁと。
今年の6月で有り難く、17歳を迎えました。
正直言うと、私自身よくここまで生きてきたなという感じです。
生まれた翌日、初めて乗った乗り物は救急車でした。
里帰り出産だったため、日立から水戸まで高速を使って病院へ行った救急車。
最初に第一関門として、狭窄した血管を広げる手術でしたが、それを一週間後に控え、私自身1週間身体が持つかどうか分からないと言われました。
この手術は何とか成功したわけですが、よく心臓病児が行うノーウッド手術、グレン手術、フォンタン術。
あと1ミリという、ミリ単位の世界で私はこの3つを未だに受けていません。受けずに済みました。
とまぁ…ここまでで随分凄いと思うんですが、この他に、両方の口唇口蓋裂、水腎症、とかあったわけです。
結局、全てひっくるめて考えると、小学校入学までに6回の手術をしました。
でも、今もまだこれで終わりではありません。
入院ばかりしていた私は、やがて子供の世界からどんどん孤立していきます。元々、話すことも得意ではなく、2語文を話し始めたのは4、5歳だったとか。
幼稚園、親と離れる事をまず受け入れられず、通ったり通わなかったり。そして肺炎も発症したのでいよいよ子供の世界は疎遠していきました。
小学校入学。
この頃には、新しい場所ということにかなり興奮。元々外の世界もよくわからなったのでとにかく新鮮でした。
その頃先ず目立ち始めたのは、登校しなかったこと。普通に遅刻してました。理由は、通学路途中にある池で遊んでたから。先生が探しに来たことも沢山ありました。私の中で時間の概念がほぼゼロだったため、団体行動も時間の感覚もない、自由人でした。
小学二年生。この頃にはなんと、誰とも話さないクラスから浮いた子供でした。周りの空気を読めなかった。普通に話に割り込んでいくタイプだったし、超えては行けない一線もよく分からなかった。
その頃から、いじめも始まりました。口の術痕の事を散々言われた。
気持ち悪いとかじゃ済まなくて、菌扱いもされたし、汚れみたいな扱いだった。それでも一人で居ることに慣れてた私はそこまで気にはしてませんでした。
ただ、ある時からそれに耐えられなくなり気づけば秒で手をあげる子供になりました。口が達者な男の子に刃向かえず、思いっきり殴ったり、蹴ったり、石や砂を投げたり……。伝えられない上に、感情のコントロールが出来なかったあの頃は、怪獣でしたね😅
母とも毎日戦争してました。前のアパートの襖にはあちこちに穴が空いた跡が。床を思いっきり蹴りまくり、下の階の人に夜謝りに行ったのも何回もあります。
それでも担任と、周りの理解があり、何とか落ち着いて行った私。後々に私を一番いじめていた子は、私を妬んだ幼なじみの悪口をそのまま真に受け、やっていたそうな。
んで、中学入学。
ここから、私の人格は崩壊していきました。
小学校2つが集まり1つの中学になるんですが、もうひとつの小学校から来たO様に目をつけられました。
心臓の病も見た目じゃ分からない事からかなり男子にも色々言われてきました。
本当は走れるのにズルしてる。
本当は元気なくせに仮病を使ってる。
O様には、口のことをひたすら言われました。
菌扱い、汚物扱いは最早当たり前。
廊下とかすれ違いざまに、
ブス、キモい、死ね、消えろ、学校来るな、菌をばら撒くな。
そりゃぁまあ色々。
でもね、苦労かけた両親には心配かけたくなかったんですよ。小学校でも苦労したから。
その頃には既に人間不信で担任にも言わなかった。力になってくれないことを分かっていたから。
その頃は、生まれて初めてでしたよ。
朝が怖い、起きることが怖い、学校が怖い、人の目が怖い、親の顔を見るのが辛い、死にたい。
朝目が覚めたらこればっかり。
でも、学校行かなくなったら、虐めてくる奴に負けると思い、私のプライドが許さなかった。
でもある時、無理無理繋げていた細い糸はいとも簡単に切れました。
朝、学校が見えると過呼吸。階段は、登り方を忘れました。登ってる途中に下を見れば断崖絶壁にいる気分。教室に入れば冷や汗は止まらず、ついに授業中に胸が締め付けられる痛みに襲われ倒れました。
全て、過度なストレスでした。
今、ここまで書いてますが私が当時話したことを両親から聞いた話を元に書いています。
というのも、中学の時の記憶はあまりありません。中一は特に。
中一の二学期後半、やっと話せました。
教育委員会が動いてくれたおかげで、学校側も有耶無耶に出来なくなり、その後、O様と同じクラスにはなりませんでした。
そしてこの間、一つだけ覚えているのは、
二学期初めと、二学期終わりに自殺未遂をしたこと。
これは両親も誰も知りません。私だけの秘密です。
一回目はクローゼットの引手にタオルを通し、首を吊りました。でも、苦しくて諦めた。
二回目は、自分で自分の首をベルトの紐で締めました。これも結果的には死ねなかった。
今思えば、死ねなかったのではなく、見えざる者が死なせなかった…と思ってます。
でまぁ、すっ飛ばして昨年手術をして、正直これからどうなるかは分かりません。
でも人はいつ死ぬかなんて、誰にも分からない。これは神様しか知らないこと。だから、いつ逝っても良いように私はやりたいことをやろうと決めました。
何回か余命宣告されて、確か最後の余命宣告は20歳だったはず。
私の心臓病は、難病で、治療法はありません。薬も。
この病で生きた人は大体50歳(一番長くて)くらいです。
完治(寛解)はしません。
でも、それでもいいと思います。今ではそう思えるようになった。
100歳まで生きてやるつもりです。誰も成し遂げたことの無いことを私が超えると。
17年しか生きてないまだまだ子供の私ですが、一つだけ言えることは、
辛い時も、泣きそうな時も、上を見ていればどうにかなる。笑っていれば、案外事は上手く進むものです。
空を憎むこともある。でも、その時の感情がいつか役に立つ日がくる。私はそう思ってます。
そして私がもう一つ学んだこと。
それは、言葉の重み。
私は、今まで出会ってきた子達、親御さんに頑張れ、と言ったことは一度もありません。
それは、精一杯頑張ってるから。
頑張ってるのに、頑張れと言われたら、こんなにも酷なことは無い。
何を頑張ればいいのか、何処まで頑張ればいいのか、分からなくなる。
私は、それについて家族ともめちゃくちゃ揉めました。というか、私が一方的にブチ切れた。
頑張れ、頑張れ、って、何処まで頑張ったら、みんなが言う「頑張れ」になれるのか。
気づけば、頑張れ、って言葉は好きじゃ無くなっちゃいました。
頑張れ、の言葉の変わりはいくらでもある。だから私は、
「応援」
っていう、この言葉を使う。
応援させてください、って。
もう精一杯頑張ってるのよ。だから、
貴方の、これからを応援してます。
貴方の、未来を応援してます。
こういう意味を込めて、応援って言葉を使う。
子供達には、手術室に入るギリギリまで来たら、
「終わったら、また会おう。先に行って、待ってて。」
心臓の場合はだいたいICUに入る為、よく術後に会ったりするんです。…記憶はありませんがね😅
不思議とICUにいた、というのは覚えていても何があったか、とかはうろ覚え。
話逸れちゃいましたが、ざっっっくり話をするとこんな感じでした、はい笑
思いの外長くなったので今日はこの辺で。
noteが訳あって開けなくなったので、これからこちらで書こうかなぁ…と。
で、口唇口蓋裂のこと、心臓のこと、まだまだ別枠で書きたいことは沢山。
また、更新しようかなぁと思いますd(˙꒳˙* )
三日坊主の私ですけど(笑)
2021年8月19日 藍琉。
(非公開でした、すみません💦)